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50年の軌跡(その4) 先見の明、港湾進出

2014年7月11日

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 仕事がないなら自分で作るしかない、という考えから、あまり人がやらない海の仕事を手がけることになった。当時の港湾工事は県の直営工事と大手に負う仕事に分かれていた。直営工事の、例えば岩盤の掘削による土砂の運搬などから手がけた。県が保有する『県有船』を建造する材料を納めていた関係もあって港湾の知識はある程度得ていた。他社と競合しない仕事、それが港湾に目を向けるポイントとなった。

 さらに、ヒマなときには自分の仕事をやればいいーという感覚から宅地造成部門に進出した。昭和44年の山木都市開発株式会社の設立に至る。

 海に進出した頃は、県有船をチャーターして仕事をしていたが、38年から39年にかけて5艘ほど自社保有船を建造した。この頃から地元業者も船を持つようになり、まもなく県有船の老朽化もあって港湾工事が県の直営から「請負制」に変わっていく。山木工業はしっかりとその波に乗った。建築、土木、港湾の3本柱が確立されていくことになる。

 昭和36年当時3,000万円だった完工高が、10年後の同46年に早くも目標の10億円台を実現した。そしてその4年後にはこれを倍増、20億円まで延ばした。このような急成長は、全完工高のおよそ5割を占める港湾工事に負うものだった。40年半ばごろから単年度で船をどんどん増やしていった結果、50年には大小合わせて20艘にも達していた。県の乗り組み員も随時採用するなど港湾工事の先駆者としての地位を不動のものとしていった。

 同業者の「山(木材)のものが海に入るのは危険だ」とする忠告を尻目に、勝負に出た新米建設業者の賭けは当たった。

 昭和51年には港湾工事で県の優良建設工事にも選ばれ知事から表彰を受けるまでになり、技術力も高い評価を得るようになる。

 そして昭和56年、いわき市平の谷川瀬に現在の社屋を新築して本社を移転、現在に至っている。

2014年7月11日

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