Special Feature
特集
山木工業80年の軌跡
80-year Trajectory
クイ木調達から起業
- 山木屋材木店の事務所(昭和23年頃)
昭和16年、いわき市平下高久に開業した山木屋材木店が、現在の山木工業の前身である。太平洋戦争が開戦した歴史的な年でもあった。
米穀商の長男に生まれた志賀季三郎(しがすいさぶろう:現代表取締役・志賀耕三郎の祖父)は農業に従事する傍ら旧下高久の区長を務めていた。その区長の仕事の一つに海岸の防風林への対応があった。砂浜の風除けにする柵を作るクイ木の調達に苦心し、山を買って直営でクイ木を切り出すことになった。このことが、材木店を開業するきっかけとなり、昭和16年に製材工場を持つことになる。この年から数えて、平成3年が50年目にあたる。
創業者・季三郎はこの直後から政治家の道を歩み始めるため学校を出たばかりの息子・久太郎が実質的には家業を切り盛りすることになる。
材木店を開いた直後に軍用材供出に対応するため県内の製材工場が統廃合されることになり、福島県木材株式会社=県木社=が創設され、全体の4割の数に製材工場がまとめられた。当時ちっぽけな町工場だった山木屋材木店が、「地の利」を得て、県木社の第16工場として生き残ることになった。県木社は戦後解散する。
店主季三郎は昭和17年から高久村の村会議員(後に議長)を務めていた。木材業の副業として民間の住宅や学校建築も手がけることがあった。昭和23年の6・3・3制移行に伴う新制中学校の誕生に合わせて隣接する豊間中学校なども施工した。
社運かけた豊間中学校
- 豊間中学校(昭和25年)
この豊間中学校には山木工業の社運をかけたエピソードがある。同社は坪1万円で豊間町から工事を請け負った。朝鮮動乱のさ中で、上棟式をあげた直後に物価が急上昇し、よその業者が請け負った学校建築は坪2万円と倍額になった。今ならインフレ条項の適用でスライドを要求できるが、当時は久太郎社長の父季三郎が高久村の議長をしていたこともあって「スライドして欲しい」とは言えなかった。当然大変な赤字工事となり、苦労を強いられたがくどきもせずに工事を完成させた。やがて落成式を迎えた。志賀久太郎社長も式典に招かれ、感謝状を受けた。感謝状には金一封が添えられた。自宅に帰って開けてみると、何と100万円の目録があった。請け負った面積が約400坪、100万円は坪1万円とすると100坪分で2割5分増額してもらったことになる。忠実にやったことをみんなが理解していたのだ。
こんなことがあって、山木工業の信用は絶大なものになった。当時の豊間町の町会議員はすべて山木工業の“営業”を手伝ってくれた。自分に支持者の住宅建築を紹介してくれるようになった。父季三郎の教えである「忠実」「誠実」が山木工業の信用を築いた。
時が流れ、昭和56年、その豊間中学校が鉄筋の校舎に建て替えられることになり、やはり山木工業が受注した。解体されていく木造校舎を見つめていた志賀久太郎社長の目に光るものがあった。
「山木は材木屋?」で決断
- 山木工業社屋(昭和36年頃)
日米安保条約が成立した昭和26年、山木屋材木店は株式会社に改組、山木林産工業と改め、志賀季三郎がそのまま代表取締役に就いた。
同29年、高久村は平市に合併され、村会議員は「市会議員」となる。自治法上の絡みもあって代表取締役を市会議員である季三郎が辞し、久太郎専務が昇格した。いわゆるトップ交代である。市に合併されたことによって公共事業は指名競争入札によって受注することになる。当然指名願いを出すことになるが「山木は材木屋ではないのか」ということになってしまう。
そこで同32年、商号を現在の「山木工業株式会社」に改める。やがて市の建設工事を受注する機会も増え、社業を延ばす上で建設と製材の2本立ては経営上問題があるとして、「建設部」と「製材部」を分離、2部制とした。昭和36年、平市正内町に移した本社を建設部とし、この頃から本格的に公共事業に参入することになる。
2部制に分離することによって社長と専務は本社の建設部に常駐、製材部は久太郎社長の末弟の志賀文平常務が見るというように組織をしっかり固め、建設の営業にも本腰を入れることになった。しかし、新参者は指名にはなってもなかなか仕事が受注できず、当初は年間3,000万円程度という状況だった。
先見の明、港湾進出
- 山木工業株式会社社屋
仕事がないなら自分で作るしかない、という考えから、あまり人がやらない海の仕事を手がけることになった。当時の港湾工事は県の直営工事と大手に負う仕事に分かれていた。直営工事の、例えば岩盤の掘削による土砂の運搬などから手がけた。県が保有する『県有船』を建造する材料を納めていた関係もあって港湾の知識はある程度得ていた。他社と競合しない仕事、それが港湾に目を向けるポイントとなった。
さらに、ヒマなときには自分の仕事をやればいいーという感覚から宅地造成部門に進出した。昭和44年の山木都市開発株式会社の設立に至る。
海に進出した頃は、県有船をチャーターして仕事をしていたが、38年から39年にかけて5艘ほど自社保有船を建造した。この頃から地元業者も船を持つようになり、まもなく県有船の老朽化もあって港湾工事が県の直営から「請負制」に変わっていく。山木工業はしっかりとその波に乗った。建築、土木、港湾の3本柱が確立されていくことになる。
昭和36年当時3,000万円だった完工高が、10年後の同46年に早くも目標の10億円台を実現した。そしてその4年後にはこれを倍増、20億円まで延ばした。このような急成長は、全完工高のおよそ5割を占める港湾工事に負うものだった。40年半ばごろから単年度で船をどんどん増やしていった結果、50年には大小合わせて20艘にも達していた。県の乗り組み員も随時採用するなど港湾工事の先駆者としての地位を不動のものとしていった。
同業者の「山(木材)のものが海に入るのは危険だ」とする忠告を尻目に、勝負に出た新米建設業者の賭けは当たった。
昭和51年には港湾工事で県の優良建設工事にも選ばれ知事から表彰を受けるまでになり、技術力も高い評価を得るようになる。
そして昭和56年、いわき市平の谷川瀬に現在の社屋を新築して本社を移転、現在に至っている。